下地島空港に降り立った時、真っ先に目に飛び込んでくるのは、どこまでも広がる青い海と平らな地形でした。伊良部島のすぐ西隣にあるこの島は、面積約9.5km²、驚くほど平坦で、「これ、本当に自然の島なの?」って思うくらい特徴的な地形をしています。
でも実は、この平らな島の地下には、何千年もかけて形成された隆起サンゴ礁の歴史が眠っているんです。そして地上には、500年以上にわたる人々の営みの記録が残されています。
下地島を訪れるなら、ぜひその歴史も知ってほしい。通り池を見ながら「ここには津波の伝説があるんだ」って思うと、その神秘的な青さがまた違って見えてきます。下地島空港でジェット機を見ながら「この空港には40年以上の歴史があるんだ」って知ると、パイロット訓練の意味が理解できる。
今回は、下地島の歴史を辿りながら、この平らな島がどのようにして今の姿になったのかを紹介します。
下地島の成り立ちと地形|隆起サンゴ礁が作り出した平坦な島

下地島は、伊良部島の西隣に位置する低平な島です。
面積は約9.5km²で、島全体が隆起サンゴ礁から成っています。「隆起サンゴ礁」って聞くと難しそうですが、簡単に言えば、太古の昔にサンゴ礁だった場所が地殻変動で海面上に持ち上がってできた島、ということです。
初めて下地島をドライブした時、「本当に平らだな」って驚きました。伊良部島にも起伏の少ない場所は多いんですが、下地島はさらに平坦。見渡す限り、高い山も丘もない。空がめちゃくちゃ広く感じる。そして、道路を走っていると突然、真っ青な「通り池」が現れたりして、「え、なにこれ!」ってなる。
下地島と伊良部島の間には、幅10~数十メートルの狭い水路が約3km続いています。この水路は「入り江」とも呼ばれていて、橋から見下ろすとエメラルドグリーンの海が流れているのが見えるんです。初めて見た時、「こんなに近いのに、ちゃんと海峡なんだ」って思いました。現在は6本の橋で結ばれていますが、昔は船で行き来していたんですね。
そして、下地島には川がありません。隆起サンゴ礁の島は水が地下に染み込みやすく、地表に川が形成されにくいんです。だから昔の人たちは、水の確保にとても苦労したはずです。
島の北西海岸には、「通り池」と呼ばれる陥没ドリーネがあります。ドリーネというのは、石灰岩地帯に見られる陥没した穴のこと。通り池は二つの池が地下で繋がっていて、さらに海とも繋がっているという不思議な地形です。そして、ここには津波にまつわる伝説が伝わっています。詳しくは後述しますが、明和の大津波との関連も指摘されているんです。
古い記録に残る下地島|1463年、朝鮮王朝実録に記された「時麻子島」

下地島の存在が文献に登場するのは、今から560年以上前のことです。
朝鮮王朝実録の1463年の記録には、宮古島に漂着した朝鮮船の乗員の記録があり、その中に下地島に比定される「時麻子島(しまししま)」が記されています。
当時、宮古島と下地島など近隣の5つの島の島民が互いに行き来していたことが分かっており、1463年の時点ですでに人々が居住していた可能性があるんです。
これ、すごくないですか?560年前の記録に、この小さな下地島の名前が残っているって。朝鮮からの漂流者が宮古諸島に辿り着いて、そこで見聞きした情報を記録に残した。その中に「時麻子島」として下地島が出てくる。当時から人が住んでいて、近隣の島々と交流があった証拠です。
初めてこの事実を知った時、下地島の歴史の深さに驚きました。今は空港と観光地のイメージが強いけれど、何百年も前から人々がここで暮らしを営んでいたんだって。
古琉球時代の村落|木泊村(キドマリ村)の痕跡

古琉球時代、下地島には村落が存在していました。
古琉球の頃、伊良部島の佐和田地区に「木泊村(キドマリ村)」という村が存在し、現在も村跡が残っているとされています。『伊安氏正統家譜』という家系図には、16世紀頃の人物「喜屋泊与人(きやどまりよにん)」に関する記述があり、木泊村がその頃まで存在していた可能性が示されているんです。
「与人」というのは、琉球王国時代の役職で、村の長のような存在です。つまり、16世紀の下地島・伊良部島エリアには、ちゃんとした行政組織があって、人々が暮らしていたということ。
佐和田の浜を訪れた時、「この辺りに昔、村があったのかな」って想像してみました。今は静かなビーチと住宅地ですが、500年前にはここで人々が生活していた。どんな家に住んで、どんな仕事をして、どんな言葉を話していたんだろう。
木泊村がいつ、なぜ消えてしまったのかは明確には分かっていません。でも、その痕跡が地名や記録に残っているって、ロマンがありますよね。
牧場の開設|近世初頭、下地島は牛馬の放牧地だった

近世初頭、下地島は牧場として利用されるようになります。
伊良部村の国仲与人(くになかよにん)が八重山で牡牛・牝牛を購入し、下地島で放牧したと伝えられています。平坦で広い土地、豊富な草地、そして周囲が海で囲まれている下地島は、牛馬の放牧に適していたのでしょう。
1767年には、馬が風雨や寒暑をしのげるよう、アダン(タコノキ)などの植樹が指示されました。アダンは沖縄の海岸部によく生えている植物で、防風林としても機能します。馬たちがアダンの木陰で休む姿を想像すると、なんだか微笑ましいですね。
下地島をドライブしていると、今でも広々とした牧草地のような場所が点在しています。「ここ、昔は本当に牧場だったんだな」って実感できる風景です。現在は空港や観光施設が中心ですが、江戸時代の下地島は、牛馬がのんびり草を食む牧場の島だったんです。
佐和田橋の架橋と明和の大津波|1771年、島を襲った自然災害

下地島の歴史を語る上で、避けて通れない出来事があります。明和の大津波です。
1769年、伊良部島と下地島の間に「佐和田矼(さわだばし)」という橋が築かれました。これは二つの島を結ぶ最初の橋でした。当時、橋を架けるのは大変な事業だったはずです。人々の行き来が頻繁になり、生活が便利になったことでしょう。
しかし、その2年後の1771年、八重山地震に伴う明和の大津波が発生します。
この津波は、平坦な下地島を容赦なく襲いました。牧場や畑を水没させ、多くの馬や牛・羊が溺死しました。記録によると、下地島には13丈(約40メートル)の大波が打ち寄せたと伝えられています。40メートルの波って、想像できますか?10階建てのビルくらいの高さです。
津波は西岸に巨大な岩を打ち上げました。それが「帯岩(オーイワ)」です。初めて帯岩を見に行った時、その大きさに圧倒されました。「津波がこんな岩を運んできたのか」って。自然の力の恐ろしさと、それを乗り越えてきた島の人々の強さを感じる場所です。
そして、せっかく架けられた佐和田橋も、この津波によって一部が破壊されてしまいました。
通り池に伝わる津波の伝説も、この明和の大津波と関連があると言われています。通り池を訪れた時、あの神秘的な青い水面を見ながら「ここにも津波の記憶が刻まれているんだ」って思うと、ただの観光スポット以上の意味を感じます。
近代の交通インフラ整備|下地島と伊良部島を結ぶ6本の橋

明治時代以降、下地島と伊良部島の間には次々と橋が架けられていきます。
1912年、国仲橋が架けられました。佐和田橋の津波被害から141年、ようやく二つ目の橋が完成したんです。そして1919年には仲地橋も架橋されました。
昭和時代に入ると、さらに橋の建設が進みます。1976年には下地島空港建設に伴い、工事用道路として乗瀬橋が架けられました。ただ、この橋は老朽化のため2009年に通行止めとなり、2019年3月に新しい橋が開通しています。
現在、下地島と伊良部島の間には6本の橋が架けられています。
6本の橋があるって、考えてみるとすごいことですよね。二つの島が完全に一体化しているようなものです。下地島をドライブしていると、「あ、今橋を渡ったな」って気づくこともあれば、気づかずに通り過ぎることもある。それくらい、二つの島はシームレスに繋がっています。
伊良部大橋が2015年に開通して宮古島と伊良部島が繋がり、そして伊良部島と下地島も6本の橋で繋がっている。つまり、宮古島から下地島まで、車で自由に行き来できるようになったんです。これは島の歴史において、本当に大きな変化でした。
下地島空港の開港|1979年、パイロット訓練の島へ

下地島の歴史を大きく変えたのが、下地島空港の開港です。
1979年、下地島にジェットパイロット訓練用の飛行場が開設されました。ブリタニカ国際大百科事典によると、この空港は日本で唯一のパイロット訓練用空港として建設されたんです。
滑走路の長さは3,000メートル。そして、左右両端に計器着陸装置(ILS)を備えています。これは、どちら向きからでも着陸訓練ができるということです。パイロット訓練に特化した、非常に特殊な空港だったんですね。
初めて下地島空港を訪れた時、「なんでこんな小さな島に、こんな立派な空港があるんだろう」って不思議に思いました。でも、その理由を知って納得。訓練用だからこそ、人口の少ない離島に作られたんです。万が一の事故のリスクを最小限にするため、そして騒音問題を避けるため。
1979年の開港から、多くのパイロットがこの下地島空港で訓練を受けてきました。今、世界中の空を飛んでいるパイロットの中には、下地島で訓練した人たちがたくさんいるはずです。
下地島空港の旅客化|2019年、観光の島への進化

そして、下地島空港は新たな時代を迎えます。
2019年3月30日、新しい旅客ターミナル「みやこ下地島空港ターミナル」が開業しました。それまでパイロット訓練専用だった空港が、一般の旅客便も受け入れるようになったんです。
開業当初は、成田・関西・香港などへの定期便が就航しました。そして2020年10月からは、スカイマークが羽田や神戸・那覇便を就航させるなど、旅客便が増加しています。
初めてみやこ下地島空港のターミナルに入った時、「え、こんなにおしゃれなの!?」って驚きました。オレンジ色の瓦屋根、木のぬくもりを感じる内装、そして目の前に広がる真っ青な海。空港に着いた瞬間から、もう下地島の魅力に引き込まれる。こんなに素敵な空港、他にないんじゃないかな。
下地島空港の旅客化によって、下地島・伊良部島への観光客は大幅に増えました。それまでは宮古島空港から伊良部大橋を渡って来るルートが主流でしたが、今は下地島に直接飛んでくることができる。島の経済にも、観光にも、大きな変化をもたらしました。
ただ、今でもパイロット訓練は続いています。空港周辺をドライブしていると、訓練機が何度も離着陸を繰り返している様子が見られます。旅客便とパイロット訓練が共存する、ちょっと珍しい空港なんです。
行政の変遷|伊良部町から宮古島市へ

下地島の行政区分も、時代とともに変化してきました。
下地島は長く、伊良部村(後の伊良部町)に属していました。1982年、伊良部村が町制施行して伊良部町となります。そして2005年、平成の大合併により、伊良部町が平良市・城辺町・下地町・上野村と合併し、宮古島市が誕生しました。
これにより、下地島は現在、宮古島市に属しています。
「下地島市」でも「伊良部市」でもなく、「宮古島市」の一部になったんです。島民の中には、「伊良部町」という名前がなくなったことに対して、複雑な思いを抱いた人もいたかもしれません。
でも、宮古島市の一部になったことで、インフラ整備や観光振興などの面で新しい可能性も広がりました。下地島空港の旅客化も、宮古島市全体の観光戦略の一環として実現したものです。
下地島の今、そしてこれから

下地島の歴史を辿ってきましたが、この島は常に変化し続けてきたことが分かります。
500年以上前から人々が住み、村落を形成し、牧場として利用され、津波に襲われ、橋が架けられ、空港が建設され、そして観光地へと進化してきた。
現在の下地島は、パイロット訓練と観光が共存する、非常にユニークな島です。下地島空港からは国内外への便が飛び、17ENDや通り池などの観光スポットには多くの人が訪れます。中の島ビーチではシュノーケリングを楽しむ人々がいて、静かな島道をドライブする観光客がいる。
でも同時に、この島には長い歴史が刻まれています。明和の大津波を乗り越えた記憶、パイロット訓練の40年以上の実績、そして古琉球時代から続く人々の営み。
下地島を訪れる時、ぜひその歴史にも思いを馳せてみてください。通り池を見ながら「ここには津波の伝説があるんだ」って思うと、ただの絶景スポット以上の意味が見えてきます。帯岩を見ながら「250年前の津波が運んできたんだ」って知ると、自然の力の凄まじさを実感します。下地島空港でジェット機を見ながら「ここで訓練したパイロットが世界中の空を飛んでいるんだ」って想像すると、なんだか誇らしい気持ちになります。
歴史を知ることで、旅はもっと深くなる。下地島の500年の物語が、あなたの旅に新しい視点を与えてくれるはずです。






