伊良部島を訪れて、透き通った海や静かな集落を眺めていると、ふと思うんです。「この島って、いつからここにあるんだろう」「昔の人たちは、どうやって暮らしていたんだろう」って。
観光スポットを巡るのも楽しいけれど、島の歴史を知ると、目の前の景色がまた違って見えてくる。佐良浜の漁港を歩きながら「300年前にここに移り住んだ人たちがいたんだ」って思うと、なんだか感慨深くなる。伊良部大橋を渡りながら「昔はフェリーしかなかったんだ」って知ると、この橋の存在がどれほど大きな変化だったか実感できる。
今回は、伊良部島の歴史を辿りながら、この島がどのようにして今の姿になったのかを紹介します。700年以上続く島の物語を、一緒に見ていきましょう。
伊良部島集落の起こり|14世紀、宮古島からの移住者たち

伊良部島の集落が生まれたのは、今から700年以上前のことです。
1308年ごろ、宮古本島の久松地区から移住者が伊良部島に渡り、現在の伊良部集落が成立したとされています。宮古島の久松方面から渡った人びとによって開拓が始まり、これが伊良部島の集落の起源になりました。
当時の人たちは、どんな思いで海を渡ったんでしょうね。伊良部島には豊かな土地があったのか、それとも新しい生活を求めて移り住んだのか。記録には残っていませんが、きっと大きな決断だったはずです。
初めて伊良部集落を訪れた時、古い石垣や静かな路地を歩きながら「この辺りに、最初の人たちが住み始めたのかな」って想像してみました。700年という時間の重みを感じる瞬間でした。
琉球王国時代の伊良部島|サトウキビと漁業で支えられた暮らし

伊良部島は、琉球王国の支配下にありました。
当時の人々は、農業と漁業を中心に生活を営んでいました。特にサトウキビ栽培が盛んで、島の重要な産業となっていたんです。サトウキビは琉球王国にとって貴重な交易品でもあり、島の人々にとっても大切な収入源でした。
また、伊良部島のすぐ隣には下地島があります。二つの島の間には狭い水路があり、古くから人々は行き来していました。今でこそ6本の橋で結ばれていますが、昔は船で渡っていたんですね。
琉球王国時代の伊良部島は、サトウキビを育て、海で魚を獲り、静かに暮らす人々の島だったのでしょう。
池間島から佐良浜へ|1720年の強制移住と300年の歴史

伊良部島の歴史を語る上で欠かせないのが、池間島からの移住です。
1720年ごろ、池間島の住民の一部が伊良部島へ強制移住させられ、佐良浜地区に定住しました。宮古島市総合博物館の紀要によると、1720年に池間島から14戸が佐良浜に移されたと記録されています。その移住から300年を迎えた2020年には、記念の祝賀行事も行われました。
「強制移住」という言葉を聞くと、当時の人々の苦労が想像できます。住み慣れた池間島を離れ、見知らぬ伊良部島の佐良浜に移り住むことになった人たちは、どんな気持ちだったんでしょう。
ただ、その移住者たちが佐良浜の基礎を築き、今の賑やかな漁港の町へと発展させていったのです。佐良浜を訪れると、坂道に立ち並ぶカラフルな家々や活気ある漁港の風景が目に入ります。300年の時を経て、この場所は多くの人々の暮らしを支える重要な地域になりました。
また、1720年から1723年にかけて伊良部島北部では出作耕作(自由耕作者)が増えたとも記録されています。移住をきっかけに、島の開拓が進んでいったことがわかります。
前里村の創建と佐良浜漁港の発展|カツオ漁業の歴史

1766年、前里村が創建されました。2016年には創建250周年を祝う行事が行われ、長い歴史を持つ集落として今も人々に受け継がれています。
そして、伊良部島の産業を語る上で欠かせないのが、佐良浜漁港のカツオ漁業です。
佐良浜は南方のカツオ漁業の基地として発展し、カツオ漁とかつお節の加工が重要な産業になりました。1909年にはカツオ生産組合が組織され、漁船やかつお節加工場を持つ本格的な産業へと成長していったのです。
初めて佐良浜漁港を訪れた時、「魚市場いちわ」や「おーばんまい食堂」で新鮮な海鮮丼を食べながら、「この漁港には100年以上の歴史があるんだ」って思うと、目の前の料理がより一層美味しく感じられました。今でもカツオ漁は佐良浜の大切な産業であり、島の人々の誇りでもあります。
明和の大津波|1771年、島を襲った自然災害の記憶

伊良部島の歴史には、忘れてはならない自然災害の記録があります。
1771年、八重山地震に伴う大津波が発生しました。この「明和の大津波」は、伊良部島と下地島にも大きな被害をもたらしました。
津波は畑や牧場を水没させ、多くの家畜が溺死したと記録されています。当時の人々がどれほど恐怖を感じ、どれほどの被害を受けたのか、想像するだけで胸が痛みます。
伊良部島を訪れると、海岸沿いに「帯岩(オーイワ)」という巨大な岩があります。この岩は、明和の大津波によって打ち上げられたと伝えられています。実際に帯岩を見に行った時、「津波がこんな大きな岩を運んできたのか」って驚きました。自然の力の凄まじさと、それを乗り越えてきた島の人々の強さを感じる場所です。
近代の伊良部島|人頭税廃止、教育制度の整備、漁業の発展

明治時代以降、伊良部島は大きく変化していきます。
1903年、長く続いていた人頭税が廃止されました。これによって人々の生活は改善され、同じ年には池間島に池間小学校が創立されるなど、教育制度も整っていきました。
大正時代から昭和時代にかけては、南洋漁業やかつお漁が盛んになります。1930年代には漁船の動力化が進み、漁港の整備も行われました。それまで手漕ぎや帆船だった漁船が、エンジンを搭載した動力船になったことで、より遠くまで漁に出られるようになり、漁獲量も増えていったのです。
この時期の発展が、今の佐良浜漁港の基盤を作ったと言えるでしょう。
伊良部町から宮古島市へ|行政の変遷と島の未来

戦後、伊良部島の行政区分も変化していきます。
1982年、伊良部村が町制施行して伊良部町になりました。そして2005年、平成の大合併により、平良市、城辺町、下地町、上野村と合併して宮古島市が誕生しました。これにより、伊良部島と下地島は宮古島市の一部となります。
「伊良部町」という名前がなくなったことに対して、当時は複雑な思いを抱いた島民もいたかもしれません。でも、宮古島市の一部になったことで、インフラ整備や観光振興などの面で新しい可能性も広がりました。
伊良部大橋の開通|2015年、島を結んだ夢の架け橋

伊良部島の歴史を語る上で、絶対に外せないのが伊良部大橋です。
2015年1月31日、宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋(全長3,540m)が開通しました。これにより、車で自由に往来できるようになったのです。
それまでは、フェリーが主な交通手段でした。島民にとって、宮古島に渡るにはフェリーの時刻表を確認し、天候によっては欠航することもあったんです。伊良部大橋の開通は、島の人々にとって長年の夢が叶った瞬間でした。
初めて伊良部大橋を渡った時のことを、今でも覚えています。真っ青な海の上を走りながら、「この橋がなかったら、こんなに気軽に伊良部島に来られなかったんだな」って思いました。橋の開通によって、観光客も増え、島の経済も大きく変わりました。
ちなみに、伊良部島と下地島の間には、1900年代初頭から複数の橋が架けられていました。現在は6本の橋で結ばれており、二つの島は完全に一体化しています。
下地島空港の開港|1979年、島の交通と経済を変えた出来事

1979年、下地島空港が開港しました。
この空港は、ジェット機のパイロット訓練場として使用されてきました。訓練用の空港とはいえ、3,000メートルの滑走路を持つ本格的な空港です。そして2019年には、みやこ下地島空港ターミナルが新たにオープンし、LCC路線が就航するようになりました。
下地島空港の開港は、島の交通や経済に大きな変化をもたらしました。空港ができたことで雇用が生まれ、観光客も増え、島の可能性が広がったのです。
初めてみやこ下地島空港に降り立った時、「こんなにおしゃれな空港が伊良部島にあるんだ」って驚きました。オレンジ色の瓦屋根、木のぬくもりを感じる内装、そして目の前に広がる美しい海。空港に着いた瞬間から、もう伊良部島の魅力に引き込まれていました。
現在の伊良部島|農業、漁業、そして観光の島

現在の伊良部島は、農業(サトウキビ)と漁業を基幹産業としながら、観光業も発展しています。
サトウキビ畑が広がる風景は、琉球王国時代から続く伊良部島の原風景です。佐良浜漁港では今もカツオ漁が行われ、新鮮な海の幸が水揚げされています。そして、伊良部大橋の開通と下地島空港の再整備により、観光客が増え、島には新しいホテルやカフェ、レストランが次々とオープンしています。
700年以上続く伊良部島の歴史は、決して順風満帆ではありませんでした。強制移住、津波、戦争、そして時代の変化。それでも島の人々は、その都度立ち上がり、新しい暮らしを築いてきました。
伊良部島を訪れる時、ぜひこの島の歴史にも思いを馳せてみてください。17ENDの美しいビーチを眺めながら「明和の大津波を乗り越えた島なんだ」って思うと、景色がまた違って見えてきます。佐良浜の漁港で海鮮丼を食べながら「300年前に池間島から移住してきた人たちが、この町を作ったんだ」って知ると、料理がより一層美味しく感じられます。
歴史を知ることで、旅はもっと深くなる。伊良部島の700年の物語が、あなたの旅に新しい視点を与えてくれるはずです。




